「物価安定の目標に向けて、確度は少しずつ高まってきている」

2024年2月、植田総裁は国会答弁で、就任以来最も踏み込んだ発言をした。「少しずつ高まっている」——学者出身の植田にとって、この表現は事実上の利上げ予告だった。

春闘が鍵を握る

植田が繰り返し言及したのは「賃金と物価の好循環」だ。物価が上がっても賃金が追いつかなければ、それは国民を貧しくするだけの「悪いインフレ」であり、金融引き締めの理由にならない。

春季労使交渉の結果を含め、賃金動向を丹念に確認していく。賃金上昇を伴う形で2%の物価安定目標が達成されることが重要だ。

— 植田和男, 2024年2月 国会答弁

2024年の春闘は、連合の第1回集計で平均5.28%という33年ぶりの高い賃上げ率を記録することになる。植田はこのデータを待っていた。

「17年ぶりの利上げ」が意味すること

日銀が最後に利上げしたのは2007年2月。当時の政策金利引き上げは0.25%から0.5%への小幅なものだったが、その後のサブプライム危機で撤回を余儀なくされた。

2024年3月、植田は実際にマイナス金利を解除し、政策金利を-0.1%から0-0.1%に引き上げた。同時にYCCも撤廃した。

  • マイナス金利: 2016年1月導入、8年ぶりに解除
  • YCC: 2016年9月導入、約7年半で終了
  • ETF買い入れ: 新規買い入れ終了

これは「利上げ」と呼ぶには小さな動きだが、日本の金融政策の30年に及ぶ異常な実験の転換点としては、歴史的な重みを持つ。

筆者の見立て

植田のアプローチを一言で表すなら「丁寧すぎるほど丁寧な正常化」だ。市場にサプライズを与えず、一歩ずつ地雷原を歩くように進む。

しかし、この丁寧さには代償がある。日銀が動く前に市場が先回りし、円安が進行する。2024年2月時点でドル円は149円台。植田の「少しずつ」は、為替市場にとっては「遅すぎる」と翻訳された。

住宅ローンを抱える日本の家計にとって、2024年は「金利が動き始めた年」として記憶されるだろう。変動金利の見直しは通常、半年に1回。2024年後半から、じわじわと返済額が増え始める家庭が出てくる。月5,000円、1万円の増加——これが植田の「正常化」の現実だ。

異次元緩和の遺産

黒田東彦前総裁の10年間で、日銀のバランスシートはGDPの130%に膨張した。保有国債は発行残高の約半分、ETF保有額は約37兆円(東証時価総額の約4%)に達した。

植田が受け継いだのは、世界最大の中央銀行実験の後始末だ。解除は一瞬でできるが、バランスシートの正常化には10年以上かかる。その間、日本経済は「金利のある世界」に再適応しなければならない。